以下の問1の記述問題を解いてみて下さい。
はくほう会の過去問の一部です。
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次の文章を読んで、解答用紙の問いに答えなさい。字数を数える場合は、句読点や括弧、カギ括弧も一字とする。
点的論理
区切りのない日本語の文章に、論理的な筋道がないわけではありません。たとえば『平家物語』などは、きわめて論理的に構築されたすばらしい作品です。ヨーロッパ的なセンテンスやパラグラフはありませんが、非常に洗練されているので、内容がすんなりと頭に入ります。あれだけ多くの登場人物が現れるのに、混乱するということがありません。
『平家物語』は個人の手による作品ではなく、多くの琵琶法師たちが何年にもわたって語り継ぎながら手を加えてきた合作です。だからこそ、余分なところが削り取られ、語り口も巧みになるなどして、すっきりした筋道が立つのでしょう。まさに加上の説によっています。これが日本語の論理を築く上での有効なやり方なのかもしれません。
ただし、『平家物語』のような長編であれはどの論理性を持つ作品は、日本では例外的な存在だといえるでしょう。一般に文章の区切りがはっきりしないため、日本語の文章は長ければ長いほど論理構成が不明確になりがちです。
そのため日本では、基本的には短文が好まれます。これは前にもお話ししましたが、かつてあった長い歌は短歌になり、その短歌でも長く感じられてか、俳句が生まれました。短ければ短いほどまとまりがよくなるのが日本語なのです。
しかもその論理は、ヨーロッパの言語のように線でつながるものではありません。日本人は点を並べるように論理を構成します。
たとえば芭蕉の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」にしても、「古池や」「蛙飛び込む」「水の音」という三つの点から成っていると見ることができるでしょう。「古池に蛙が飛び込んだら水の音がしました」というセンテンスとは、ベースにある論理が違います。「古池」「蛙」「水の音」がそれぞれひとつの点として世界をもっている。それを読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっているのです。
現代人にはピンとこないかもしれませんが、そもそも蛙は田んぼに似合うものであって、古池にいるのは似つかわしくありません。したがって、そこで蛙がジャンプする風景も違和感がある。つまり読み手は、「古池や」「蛙飛び込む」という二つの点を与えられた時点で、宙ぶらりんな落ち着かない気持ちになるわけです。
そして、その二点をどう結びつけるか考えているときに、「水の音」という最後の点が提示される。こうなると、そこで描かれた世界は「蛙が飛び込んだらドボンと音がしました」というA単純なものではありません。三つの点を読み手が頭の中でつないだとき、実はこの句が「水の音」が消えたのちに現れる静寂を描いていることがわかるのです。
①「ヨーロッパの論理」では、そこまでの解釈を読者に要求することなどできないでしょう。最初から最後まで線でつなぐ論理では、書かれていることが表現のすべてです。しかし与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば、こうした奥深い論理が可能になる。日本人は、これが得意です。
逆に、きっちりと引かれた線ですと、日本人は退屈な気分になってしまいます。それもあって、外国語から翻訳された文章は途中で読むのが嫌になり、ますます難しく感じられてしまうのでしょう。点を並べてもらったほうが、緊張感を持って読むことができるのです。一度だけでなく、二度、三度読み返して初めてわかることがあるのもB偶然ではないでしょう。
問1 ①「ヨーロッパの論理」の特徴を、日本語の論理と比較しながら書きなさい。
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本文を、
日本の論理(緑のアンダーライン)
ヨーロッパの論理(黄色のアンダーライン)
に分けてみます。
点的論理
区切りのない日本語の文章に、論理的な筋道がないわけではありません。たとえば『平家物語』などは、きわめて論理的に構築されたすばらしい作品です。ヨーロッパ的なセンテンスやパラグラフはありませんが、非常に洗練されているので、内容がすんなりと頭に入ります。あれだけ多くの登場人物が現れるのに、混乱するということがありません。
『平家物語』は個人の手による作品ではなく、多くの琵琶法師たちが何年にもわたって語り継ぎながら手を加えてきた合作です。だからこそ、余分なところが削り取られ、語り口も巧みになるなどして、すっきりした筋道が立つのでしょう。まさに加上の説によっています。これが日本語の論理を築く上での有効なやり方なのかもしれません。
ただし、『平家物語』のような長編であれはどの論理性を持つ作品は、日本では例外的な存在だといえるでしょう。一般に文章の区切りがはっきりしないため、日本語の文章は長ければ長いほど論理構成が不明確になりがちです。
そのため日本では、基本的には短文が好まれます。これは前にもお話ししましたが、かつてあった長い歌は短歌になり、その短歌でも長く感じられてか、俳句が生まれました。短ければ短いほどまとまりがよくなるのが日本語なのです。
しかもその論理は、ヨーロッパの言語のように線でつながるものではありません。日本人は点を並べるように論理を構成します。
たとえば芭蕉の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」にしても、「古池や」「蛙飛び込む」「水の音」という三つの点から成っていると見ることができるでしょう。「古池に蛙が飛び込んだら水の音がしました」というセンテンスとは、ベースにある論理が違います。「古池」「蛙」「水の音」がそれぞれひとつの点として世界をもっている。それを読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっているのです。
現代人にはピンとこないかもしれませんが、そもそも蛙は田んぼに似合うものであって、古池にいるのは似つかわしくありません。したがって、そこで蛙がジャンプする風景も違和感がある。つまり読み手は、「古池や」「蛙飛び込む」という二つの点を与えられた時点で、宙ぶらりんな落ち着かない気持ちになるわけです。
そして、その二点をどう結びつけるか考えているときに、「水の音」という最後の点が提示される。こうなると、そこで描かれた世界は「蛙が飛び込んだらドボンと音がしました」というA単純なものではありません。三つの点を読み手が頭の中でつないだとき、実はこの句が「水の音」が消えたのちに現れる静寂を描いていることがわかるのです。
①「ヨーロッパの論理」では、そこまでの解釈を読者に要求することなどできないでしょう。最初から最後まで線でつなぐ論理では、書かれていることが表現のすべてです。しかし与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば、こうした奥深い論理が可能になる。日本人は、これが得意です。
逆に、きっちりと引かれた線ですと、日本人は退屈な気分になってしまいます。それもあって、外国語から翻訳された文章は途中で読むのが嫌になり、ますます難しく感じられてしまうのでしょう。点を並べてもらったほうが、緊張感を持って読むことができるのです。一度だけでなく、二度、三度読み返して初めてわかることがあるのもB偶然ではないでしょう。
ヨーロッパの論理
・線でつながるもの
・最初から最後まで線でつなぐ論理では、書かれていることが表現のすべてです
「まとめ」
ヨーロッパの論理は、最初から最後まで線でつなぐ論理で、書かれていることが表現の全てである。
日本の論理
・日本人は点を並べるように論理を構成します
・「古池」「蛙」「水の音」がそれぞれひとつの点として世界をもっている。それを読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっているのです。
・三つの点を読み手が頭の中でつないだとき、実はこの句が「水の音」が消えたのちに現れる静寂を描いていることがわかるのです。
与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば、こうした奥深い論理が可能になる
「まとめ」
日本の論理は、点で論理を構成し、その点を読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっている。
設問
問1 ①「ヨーロッパの論理」の特徴を、日本語の論理と比較しながら書きなさい。
「ヨーロッパの論理」の特徴
ヨーロッパの論理は、最初から最後まで線でつなぐ論理で、書かれていることが表現の全てである。
日本語の論理と比較しながら
日本の論理は、点で論理を構成し、その点を読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっている。
解答は、
ヨーロッパの論理は、最初から最後まで線でつなぐ論理で、書かれていることが表現の全てであるが、
日本の論理は、点を並べるように論理を構成し、その点を読者が頭の中でつなげたときに、そこに書かれていない意味が生じる仕掛けになっている。
ということになります。
ほとんど本文の記述を利用して解答を作ります。
本文の記述にない部分は赤のアンダーラインのところだけです。
記述式問題も選択式問題(択一式問題)も、結局は、設問の解答が本文のどこに書いてあるかを見つけるゲームなのです。
ですので、まずは、選択式問題(択一式問題)から練習していくとよいでしょう。
選択式問題で、選択肢の記述が本文の記述と一致しているかどうかを比べてみるという練習を積めば、記述式の問題を解く力もついてきます。
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