市民病院での騒動
2022年、大津市の基幹病院である市立大津市民病院で医師の大量退職がありました。

この市民病院は、30診療科、401床という大きな病院です。
市民の10人に1人が通院するぐらいの病院です。
市民病院は大学から医師が派遣されています。
市立大津市民病院の場合は、京都大学医学部と京都府立医科大学の両方から医師が派遣されていました。
騒動の発端
京都大学から派遣されていた外科医の人たちが、「京都府立医科大学出身の理事長から、一方的に人員削減や交代を迫られた。」と告発したことでした。
計23名の医師が退職しました。
このため、脳神経外科などが医師不在となり医療崩壊の危機という状態になりました。
後始末
市立大津市民病院は、済生会滋賀県病院から京都府立医科大学卒の日野明彦医師(67歳)を市民病院の院長に据える改革を行いました。
日野医師は母校の京都府立医科大学に医師派遣の要請をするも良い返事は得られませんでした。
もちろん、京都大学医学部に要請することはできません。(激おこなので)
信頼失墜
突然の医師の大量退職は全国新聞の記事になり、市民病院は市民の信頼を失いました。
患者も激減しました。
患者の多くは、大津赤十字病院などへ流れたとみられています。
日野院長も、「白い巨塔」的な体質はどうしても残っています。」と語ります。
※白い巨塔=大学の医学部の中で権力闘争をする様子を描いた小説
改革
その後市立大津市民病院の医師たちは、眼の前の患者さんを助けたいという思いに集中し、「市民のための病院へ」回帰すべく大改革を行いました。
往診をしたり、学閥を超えて、初の女性副院長を抜擢したりしました。
2年後
2年後、日野院長は語ります。
「最初は後片付けみたいな感じでしたが、今は一番ひどい時期を超えたとは思います。ただ、夜明けまでには至っていませんね。
あの当時は、いいことが一つありました。
それは放射線科が残ってくれたことです。
このことがなかったら、この病院は存続できなかったかも知れません。」
改革のキーマン
放射線科の市場文功診療部長は奈良県立医科大卒です。
画像診断能力を競うコンテストで、2023年全国1位となりました。
騒動があった当時、京大の教授から医局員を引き揚げるので「あなたもどうぞ」と言われたとのこと。
放射線科が破綻すると、この病院に対する影響はとても大きいので心が痛んだそうです。
それと、日野院長について、言葉に真実味があって嘘がないし、本気で立て直していこうという気持ちが見えたので、この人の改革を成功させてあげたいという気持ちになったといいます。
日野院長は院長職をしながら、たった一人で脳神経外科を維持してきました。
思うこと
市立大津市民病院の騒動は、学閥による影響が一番大きいと思います。
昔の医局
2003年までは、医学部を卒業するとほぼ全員が大学の医局に所属し、所属医局の教授から各病院に派遣されることになっていました。
ですので、医局のトップの教授が「白い巨塔」のような最高権力者であったわけです。
医局員は、その権力者から博士号を頂戴したり、よい経験を積める病院に派遣してもらったりしていたわけです。
そういう背景があって、「白い巨塔」という小説が生まれました。
京都大学や東京大学の医学部は戦前から存在しますので、人里離れた所の隔離病棟の人事権を持っていたりします。
医局のボスに嫌われるとそこに送られるという恐怖があるのです。
現在の医局
現在では、卒業後、2年間の研修期間が定められていて、研修先の病院は自由に選べるようになっています。
よって、母校の医局に入る医学生は少なくなり、医局の権力もかなりしぼみました。
それでも、今回のような出来事が起こるのですね。
仲間意識
京都大学医学部のプライドはものすごいと思うので、そのプライドが今回の騒動を引き起こした大きな要因であったかも知れません。
第2次大戦前から医学部が存在していた大学は少なく、神戸大学も戦後に医学部が設立されました。
戦前から大学医学部のあった大学は県下に医学部のない病院も支配しました。
明石市民病院も、岡山大学の学閥が支配していたのですが、神戸大学学閥が奪還したようです。
病院のトップの出身大学の医師がその病院に派遣されます。
また、医学部の一学年の定員は国公立でも私立でも100名程度です。
医療という狭い業界なので、この100名の結束は一生続きます。
(全員となると薄い結束ですが)
彼ら彼女らの結束は強く、仲間意識も強いです。
塾部門で神大医学部のサークルの学生の人たちに長年手伝ってもらっていました。
彼らは医師になってからも付き合いが継続されていて、情報交換もしています。
他の学部と違って、とても息の長い付き合い方をしています。
ギルド的な感じですね。

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